助手席の名犬

ちょいと間があいてしまったが、佐藤研二さんつながりの話をもうひとつ。

もう12年程も前、僕が上京したての頃の話である。
僕の住まいから最寄り駅までの通り道に「こいけでんき店」という電器屋があった。
その店の前には、店名が書かれた軽トラックがよく停まっており、いつも助手席の窓が少し開いていた。
なぜなら。助手席にはいつも犬が座っていたからである。
おそらく雑種であろうその犬は、たいそう利口そうな顔つきをしており、いつも助手席からまっすぐ正面を見ていた。
彼は、看板犬として愛想をふりまいたりという事はせず、ただひたすらに助手席を守っているのであった。
例え通行人が話しかけたとしても、一瞬ちらっとそちらを見るくらいで、またすぐに使命の如くに前に向き直るのだ。
その姿は、実直という言葉が実によく似合う。

僕が二日酔いのひどい有様で彼に遭遇した時などは、どうにも申し訳ない気持ちになってひどく反省したものである。
僕・そして我が家に訪れる友人達の間で、彼はいつの間にか「こいけくん」と呼ばれ親しまれるようになった。

ところで、所謂「町の電器屋さん」に行く用事というのは意外となかなかないものである。
毎日のようにこいけでんき店の前を通ってはいても、店内に入る機会はないまま、
そしてこいけくんの本名を知る事もないまま、月日は流れた。
そしてしばらくの後、電池だか蛍光灯だかが切れた際に、遂に僕はこいけでんき店に入る機会を得た。
そしてやっと店の方に、こいけくんについての話をうかがい、彼の本名を知る事も出来たのである。が、しかし。
僕の脳内では既に彼は「こいけくん」としっかりラベリングされてしまっていたので、以降も彼を本名で呼ぶ事はなかったのであった。

それからまたしばらく経って、僕はその町から引っ越した。
佐藤研二さんと出会ったのはその後である。(やっと登場)
セッションを重ねるうちに、音楽以外の話もよくするようになったのだが、
実はなんと彼も同じ時期に近所に住んでいた事が発覚した。しかも徒歩1分程度の超ご近所さんであったのだ。
そんな近所にお互い数年住んでいながら、すれ違う事すらなかったのも不思議だが。
(すれ違っていれば必ず覚えているだろうというくらい、お互い独特な風貌であった筈だ)
その町の話をしていた時に、僕がこいけでんき店の話を持ち出してみたら、彼の口から意外な言葉が出てきた。

「ああ、こいけくん?」

なんと、彼もまたあの犬を「こいけくん」と呼んでいたのだ。
こいけくんこいけくん♪と連呼しながら改めて祝杯を交わす僕らであった。

もしかしたら、僕ら以外の近隣住民の間でも「こいけくん」として親しまれていたのかも知れない。
しかし、彼が何かを成した、というような逸話は全く聞いた事がない。
こいけくんは、助手席に座っているだけで親しまれていたのだった。
これはこれでなかなか偉大な事ではなかろうか。

更に数年が過ぎ、その町の駅前は様変わりして、こいけでんき店も移転したそうだ。
こいけくんは今も助手席に座っているのだろうか。
個人的には、駅前に銅像が建ってもおかしくないくらいに、あの町を象徴する存在であった。
こいけくんに栄光あれ。

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